「エピソード・マニアというサイトを作りたい」、友人のウェブデザイナー・しずちゃんに話したのは2年ほど前。キャリアコンサルタントとしての活動の拠点がほしいな、元々色んなエピソードを書くのが好きで、それを発信して皆さんに見ていただくチャレンジもしたいな、、、などとおもったのです。その時、しずちゃんから「何をやりたいか、ちゃんと固まってないと、サイトデザインはできない」といわれて、ぎゅっと固めるための圧がないな…。優秀な友はありがたいです。。。
ここにきて、2つの出来事が続けておきました。そして、圧がないのではなく、圧をせき止めるモノがあったのだ、と気づきました。
ここでは、後の方の出来事を書きますね。お時間があればお付き合いを。
毎日新聞から「阪神淡路大震災の発災時について話を聞かせてほしい」と依頼されました。私は、阪神淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震の発生時、アナウンサーとして生放送の番組のスタジオに立っていました。その後、神戸の長田区にリポートにも行きました。
今年、あの地震から30年になるのです。
その取材依頼は、放送局を通じてではなく、私が社外取締役を務めている新家工業(株)の広報から来ました。そして、その後、今も社員として所属する放送局の広報にこの取材依頼について伝え「そっちでやってくれたらいいよ」との言葉をもらったのです。
これまで私は地震の起きた瞬間とその後24時間、関わりつつ、放送で伝えられなかったこともたくさん経験し、いろんなことを感じましたが、「業務中に起こったこと」だったので、会社に言われた業務の範囲内でしか、発信してきませんでした。小説や映画に著作権があるように、アナウンサーとしての仕事自体に、職務著作という概念があるので、誰に言われたわけでもないのに、それに縛られていました。
そして今回、今回は会社の業務以外で、体験を語る機会がやってきたのです。
実は地震直後にも、新聞からの取材があったのですが、私自身ではなく、別の方が対応したため、間違った内容が伝わったこともありました。その後Youtubeやウィキペディアには、別の方が発信した間違って記載がありました(今もあるかと)。
自分の言葉でちゃんと語りたいな、とはどこかで思っていました。
新家工業(株)の関西工場で、毎日新聞の露木記者の質問に答えたり、自転車の前にたって写真をとってもらったり、その後はヘルメットをかぶって関西工場を見学したり、会議に出たり・・・そんな一日を過ごした後、しずちゃんからの問い「何をやりたいか」が1つ固まってきました。
まず、個人として、阪神淡路大震災について振り返り、伝える場を作りたい、と。もちろん、放送局側に迷惑にならない形を工夫して。
あの時業務で震災に関わった多くの方々、消防士・レスキューの方、病院関係者の方、報道関係者、一人ひとりにとって、母として、学生として、いろんな面を持つそれぞれの人にとって、あなたは誰なの?ということを問いかけるような経験だったとおもいます。単に会社員としてではなく、キャリアコンサルタントだったり、誰かの母や娘だったり、能登の出身者だったりする一人の人間として、30年前の経験を棚卸して、発信したい…そう思いました。
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